ヒトジュク

ヒトジュクの方法、立場、ロジックなどを公開します。

「教育と人権侵害」(ヒトジュクの戦略)

「そもそも教育は人権侵害である」

 

これがヒトジュク(ヨモギサワ)の考えです。

 

だからこそ慎重に対話を重ねていく努力を怠ってはならないと考えております。

 

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人権の根本は「自分は自分のままでいていい」という事【※1】。

この事が保障されたら、次に他者へと視点を移し、「その人はその人のままでいい」という事につなげる。

 

対して、教育の根本は「今のあなたを変えましょう」である。

 

この相反する概念を、どのように両立させるべきなのか。

 

この事こそ、現在の教育の課題なのであろう。

 

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長い間、教育とは「教える・教わる」という関係の中で行われている。

 

この教育は、まず「行動の管理」から始まる。

多くの「こうしなさい」に、多くの「それはしてはいけない」が織り交ぜられる。

そして「指示する・指示される」という関係性が確立される。

 

次に「心の管理」へと移行する。

こちらも、多くの「こう思いなさい」に、多くの「そう思ってはいけない」が織り交ぜられる。

 

こうして「自分は自分のままでいい」という気持ちを全て奪われ、誰かに決められたルールに従うだけの人間が出来上がる【※2】。

 

これが現在も日本の至る所で行われている「教育」である。

 

問題なのは、保護者も教育関係者も「管理」こそが「教育」だと考えている事である。

 

そのため、保育園では「お遊戯」と称してやりたくない者にまで芸を仕込み、小学校では自分なりの足し算・引き算をする事さえも許されず【※3】、小学校卒業式では台本通りに喋らされる。

中学に入ると「行動の管理」から「心の管理」へと移行し、管理者の意にそぐわない者は何かしらのペナルティを受ける。

そして高校において、自発的に管理者の思い通りに動けるのかを恣意的に試される。

 

現在行われている「教育」に対して、これだけ悲観的なのは私の思い違いかもしれない。

 

ただ、こうした教育を受けた人間は相手の心を管理する事を厭わない。

 

「他人の事を思いやる気持ちを、教えてあげてください」

「結婚の素晴らしさを、しっかり伝えるべきです」

「子どもを育てる事の喜びは、何事にも代え難い貴重なものだという事を教え込む必要があります」

「夢を持つ事の素晴らしさをちゃんと教えろ」

 

こうした言葉は、心を管理され、踊らされてきた人間の末路だと考えると同情の念を禁じ得ない。

 

しかし、こうした言葉に違和感を覚える人の割合は大きくなっているのではないだろうか。

 

私はそこに希望を見出したい。

 

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そもそも教育は人権侵害である(いわんや管理教育をや……)。

 

では、その人権侵害を最小限に抑えるにはどうすればよいのか。

 

ヒトジュク(ヨモギサワ)がとる手段は「対話」である。

 

・学習する事のメリット

・学習する事の目的

 

こうした事を学習者から聞き出し、加えて、ヒトジュクの立場も説明する。

これを事あるごとに(事がなくても)繰り返す。

 

そして「教える・教わる」という一方通行の関係から、「伝え合う」という相互関係への変換を目指す。

 

ただしこうした事を徹底したとしても、人権侵害を最小限に抑える効果しかない事を忘れてはならない。

 

なぜなら、どうしても教授者と学習者という立場や、大人と子供という立場による力関係により、「対話」が「誘導尋問」に陥る可能性を否めないからである。

 

それでも対話、自分自身を疑い続ける、教えるべき最低限の見極め、といった事の努力を怠ってはならないと考えている。

 

つまり、教育者がラクをするとヤバいことになる。

 

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・学習者を管理して、学習内容を作業化し、作業と答えを教え込む。

・間違えたり、失敗したりしたら、それらを無かった事にする。

 

教授側としては、こうした方法を採った方がラクである。

だってテストの点数はすぐに上がるし、学習者の事を管理しているので状態を細かく把握出来るし、失敗して落ち込んだ際のフォローをする必要もない。

 

ただし、この方法を採る際には「自己肯定感」が邪魔になる。

「自己肯定感」がある人間は自ら考えてしまう、自らの目標・目的を持ってしまう…。

そうした人間は管理できない。

管理出来ない人間が集団の中にいると、和が乱れる。

この事を、知ってか知らずか、日本では「自己肯定感」を削ぐ伝統が培われてきた。

 

日本以外がどうなのかは分からない。

この事を本当に変えていいのかも分からない。

 

それでもヒトジュクは「自己肯定感」を保持したまま学習出来る環境を提供していきたいと考えている。

 

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「自分は自分のままでいい」だけの人間になってしまったらどうするのか?

 

という疑問をもたれる方もいらっしゃるかもしれないので補足。

 

「人権」を実現するために欠かせない視点の一つに「非対称の解消」というものがあると考えています。

 

「自分は自分のままでいい」と「その人はその人のままでいい」とは表裏一体の関係なので人権を保持した場合、守らなければならない約束だと考えています。

 

ただこの場合、「人権を保持しない」という選択をしたらどうなるのか、という事については私の中で長い間、課題となっております。

 

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【※1】奥田ゆり『子どもと暴力ー子どもたちと語るために』の中にも同様の事が書かれている。

 

【※2】ちなみに、この「自分は自分のままでいい」という気持ちは「自己肯定感」と呼ばれる。

 

【※3】2016年現在、小学校で使われている算数の教科書をご覧頂ければ、何を言っているのかお分かり頂けると思います。